昔ながらの味

和食の長所、和食に伝わる心、また命の重み・大切さなどについても書いてあります。

人間の食生活と生きもの

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 ガンジーの言葉 「私たちは、暴力という大火災のまっただ中にいる哀れな存在であり、『生きものの食べ物は生きもの』という言葉には、深慮するべき意味がある。」

                    『ガンジー語録』より

 

ガンジーは、つねにインドの貧しい民衆の立場に身をおいて、インドの自治と独立のために生涯をささげた思想家である。その長い闘争の生涯における思想と実践のすべてを、その根本において一貫していたものは、アヒンサー(非暴力)の考え方であった。

 

アヒンサー(非暴力)とは、もともとヒンズー教(インド教)に伝わる教えであり、生きとし生けるものを同胞とみなし、一切の殺生を禁じる考え方である。上の言葉にも、かれの徹底した暴力否定の考え方や命あるものへの愛が述べられている。

 

ガンジーの言葉をもとに私たちの食生活を考える

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

  

最近では、米・野菜・魚介類・鶏肉中心の食生活が、肥満や成人病を予防する健康食として国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

日本の伝統的食文化の再評価

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 最近、米・野菜・魚介類が中心で肉類に依存することの少ない日本の伝統的食文化が、肥満や成人病を予防する健康食として、国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

日本列島は、湿潤な温帯に属し植物の生育にきわめて適している。日光は強すぎず弱すぎず、しかも、一年を通じて適当な降雨があり、世界でもっとも農耕に適した地域の一つである。また、暖流と寒流とがぶつかり合う豊かな海に囲まれていて、魚介類にも恵まれている。

 

こうした恵まれた環境にあって、日本人は、その歴史のなかで、穀物や野菜、それに魚介類への依存度の高い独自の食文化を築いてきた。日本人の食生活において、肉類が長い間広く普及しないできた背景には、さまざまな要因があるものの、日本列島の地理的環境が穀物や野菜、魚介類の供給に適していたことが大きくかかわっている。

 

このことは、低温・乾燥の度が強く、穀物、野菜の生産にあまり適さず、牧畜・肉類に大きく依存せざるを得なかった欧米の食文化とは対照的である。

 

わが国の歴史をさかのぼってみても、こうした食をめぐる恵まれた状況のなかで、仏教とともに伝来した殺生禁断の教えも、すなおに人びとの生活に浸透していった。天武天皇の肉食禁止令以降、度重なる殺生禁断の戒律が国策として普及していった。また、古くから民間に伝承されていた民俗的タブーのなかにも、肉食を禁忌とするものがみられた。

 

もっとも、これらの禁止令やタブーは、生きものの種類によってはこれを除外し、その影響が及んだ度合いも、地域によって、時代によって、あるいは身分や階層によって一様ではなかった。しかし、全体としてみれば、肉類への依存が少ない食生活が人びとの間に広く定着していった。

 

やがて、禅宗の精進料理の影響を受けて発達した懐石料理も、日本人の食文化を形づくる一つの柱となった。江戸時代になると、鎖国政策がとられたことによって、鶏肉は例外とする肉食忌避の風潮が助長され、日本食のもつ独自性が保ち続けられた。

 

こうして、明治に至るまでの日本人は、獣肉への依存度の低い、穀物と野菜と魚介類、それに鶏肉を加えた食文化を定着させてきた。牧畜・獣肉への依存度の低い日本人の食文化の伝統は、世界的にみてもかなり珍しいものなのである。

 

四季折々の食材に感謝し、箸を使いこれをつつましやかに食する日本食の伝統には、生きとし生けるものへの優しさが受け継がれている。 

 

食の欧米化・グローバル化が進むなかで

もちろん、食の欧米化・グローバル化が急速に進む今日の状況にあって、日本食にも、諸外国からの様々の食材を取り入れて改善していくべき点がないわけではない。

 

欧米化・グローバル化が急速に進むなかで、いま、考慮されるべきことは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の発達程度に応じて、さまざまな種類があるということである。たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たないもの」であり、また、魚介類や鳥類は、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たないもの」・「身体の外にあるもの」であるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くも、これを食することを容認している。

 

また、魚介類や鳥類も、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

こうした人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、

人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

 

ここには、日本人古来の食への思いが、今風に形を変えて生かされているといえるだろう。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

 ガンジーの言葉

私たちは、暴力という大火災のまっただ中にいる哀れな存在であり、「生きものの食べ物は生きもの」という言葉には、深慮するべき意味がある。  

ガンジー語録』より

 

ピーター・シンガーの名言から動物愛護について

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ピーター・シンガーの生涯と思想

ピーター・シンガーは、1946年生まれの、オーストラリアの哲学者・倫理学者。「種差別(ヒト以外の生物に対する差別)」の廃止と規制を訴えて、世界各地における、動物の福祉や権利を訴える運動を後押ししてきた。

かれの著書は、動物の権利や菜食主義の思想的根拠として、世界各地の人々の間で広く活用されている。

 

ザ・ニューヨーカー誌によって「もっとも影響力のある現代の哲学者」と呼ばれ、また、タイム誌によって「世界で最も影響力のある100人」の一人に選ばれている。

 

ピーター・シンガーの言葉

「平等の原理は人間のみに限られる理由はなく、動物にも広げられるべきである。」

 

「人間と動物は種が違うから別扱いしてよいというのは、人種差別、女性差別ならぬ、『種差別』であり正当化できるものではない。」

 

「現在の社会において人間が動物たちに行っていること(畜産や動物実験など)は、人間の利益を優先して動物に配慮せず、動物を利用して多大な苦痛を与えて殺害しているので非道徳的である。」

 

「動物への配慮は、人間の弱者への配慮と同じように、正義と平等の原理が要求する問題である。」

                   『動物の解放』より

 

ピーター・シンガーの思想と現代生活

ピーター・シンガーも説いているように、他の生きものの命に配慮しつつ生きることは、私たち人間にとって大切な課題である。しかし、一方で、私たち人間は、元来雑食性の動物であり、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。自らの命・健康を維持するためには、他の生きものを自らの栄養源として摂取する必要がある。

 

それゆえ、いかにして、他の生きものの命に配慮しつつ自らの生命・健康を維持していくかが、私たち人間にとっては、宿命的に背負わされている重い課題である。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じてさまざまな種類があるということである。

 

たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たないもの」であり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たないもの」・「身体の外にあるもの」であるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

また、魚介類や鳥類も、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

こうした人たちに共通しているのは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。 

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通23年で屠殺に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

最近では、米・野菜・魚介類・鶏肉中心の食生活が、成人病を予防する健康食としても、国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

 

思想家の名言に学ぶ命の重み

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       ガンジーの言葉

「私たちは、暴力という大火災のまっただ中にいる哀れな存在であり、『生きものの食べ物は生きもの』という言葉には、深慮するべき意味がある。」

       『ガンジー語録』より

     

       シュバイツァーの言葉

「人間は、助けうるすべての生命を助けたいという内的要求に従い、何らか生命あるものなら害を加えることを恐れるというときにのみ、真に倫理的である。」

       『文化と倫理』より    

 

「わたくしは、生きようとする生命にとり囲まれた生きようとする生命である。」

       『文化と倫理』より

 

       ブッダの言葉

「あたかも、母が己(おの)が独り子を身命を賭して護るように、そのように、一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし。」           

       『スッタニパータ』より

          

 「かれらも私と同様であり、私もかれらと同様である」と思って、わが身に引きくら

べ、生きものを殺してはならぬ、また、他人をして殺させてはならぬ。

       『ダンマパダ』より

 

                                                                                                                       

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、撫でてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

 牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

食生活を考える

私たち人間は、元来雑食性の動物であり、自らの命・健康を維持するためには、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。私たち人間の生命そのものが、他の生きものを自らの栄養源として摂取する必要があり、他の生きものの命をなんらかの形で犠牲にすることの上に成り立っているのである。

 

こうしたなかにあって、考えられることは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じてさまざまな種類があるということである。

 

たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たないもの」・「身体の外にあるもの」であるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

また、魚介類や鳥類も、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

こうした人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

  

最近では、米・野菜・魚介類・鶏肉中心の食生活が、肥満や成人病を予防する健康食としても国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

和食に伝わる心

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日本列島の四季折々の恵みと日本人の信仰心や自然をめでる心が絡み合って生まれた和食文化の伝統には、生きとし生けるものへの優しさが脈々と受け継がれている。

 

日本列島は、湿潤な温帯に属し植物の生育にきわめて適している。日光は強すぎず弱すぎず、しかも、一年を通じて適当な降雨があり、世界でもっとも農耕に適した地域の一つである。また、暖流と寒流とがぶつかり合う豊かな海に囲まれていて、魚介類にも恵まれている。

 

こうした恵まれた環境にあって、日本人は、その歴史のなかで、穀物や野菜、それに魚介類への依存度の高い独自の食文化を築いてきた。日本人の食生活において、肉類が長い間広く普及しないできた背景には、さまざまな要因があるものの、日本列島の地理的環境が穀物や野菜・魚介類の供給に適していたことが大きくかかわっている。

 

 このことは、低温・乾燥の度が強く、穀物・野菜の生産にあまり適さず、牧畜・肉類に大きく依存せざるを得なかった欧米の食文化とは対照的である。

 

わが国の歴史をさかのぼってみても、こうした食をめぐる恵まれた状況のなかで、仏教とともに伝来した殺生禁断の教えも、すなおに人びとの生活に浸透していった。 天武天皇の肉食禁止令以降、度重なる殺生禁断の戒律が国策として普及していった。また、古くから民間に伝承されていた民俗的タブーのなかにも、肉食を禁忌とするものがみられた。

 

もっとも、これらの禁止令やタブーは、生きものの種類によってはこれを除外し、その影響が及んだ度合いも、地域によって、時代によって、あるいは身分や階層によって一様ではなかった。しかし、全体としてみれば、肉類への依存が少ない食生活が人びとの間に広く定着していった。

 

やがて、禅宗の精進料理の影響を受けて発達した懐石料理も、日本人の食文化を形づくる一つの柱となった。江戸時代になると、鎖国政策がとられたことによって、鶏肉は除く肉食忌避の風潮が助長され、和食のもつ独自性が保ち続けられた。

 

こうして、明治に至るまでの日本人は、獣肉への依存度の低い独自の食文化を定着させてきた。牧畜・獣肉への依存度の低い日本人の食文化の伝統は、世界的にみてもかなり珍しいものなのである。

 

食材に感謝しつつ、箸を使いこれをつつましやかに食する和食の伝統には、生きとし生けるものへの優しさが受け継がれている。 

 

もちろん、食材の欧米化・グローバル化が急速に進む今日の状況のなかで、和食にも、それらの食材を取り入れて改善するべき点がないわけではない。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じて、さまざまな種類があるということである。

 

たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚や感情が発達していないものである。

 

 乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たないもの」・「身体の外にあるもの」であるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くも、これを食することを容認している。

 

また、魚介類や鳥類も、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

こうした人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

 

ここには、日本人古来の食への思いが、今風に形を変えて生かされているといえるだろう。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。

 

 最近では、和食に伝わる、米・野菜・魚介類・鶏肉中心の食生活が、肥満や成人病を予防する健康食としても、国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

          ガンジーの言葉

私たちは、暴力という大火災のまっただ中にいる哀れな存在であり、「生きものの食べ物は生きもの」という言葉には、深慮するべき意味がある。  

                      『ガンジー語録』より

 

 

 

人間の食の未来~培養肉(人工肉)の普及

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近づく培養肉(人工肉)の普及

マスコミでも報じられているように、培養肉(人工肉)の開発が、欧米を中心に進み、これを生産・販売する企業もできているという。そして、10年後には、私たちが、これを当たり前のように食べる時代が来るかもしれないという。

 

培養肉(人工肉)は、動物の幹細胞を培養・増殖してつくられる肉のことである。動物から幹細胞だけを取り出して、これを培養・増殖してつくられるものであるため、動物の命を犠牲にする必要がない。

 

また、無菌の空間で厳密な管理のもとでつくることも可能であるため、衛生面で評価できるうえ、家畜を飼育するのとくらべて環境・大地・水への負荷も低い。

 

さらに、今後の技術の進展によって、消費者のニーズに応えるような、よりヘルシーでより食べやすい肉を大量生産できる可能性も秘めている。

 

動物の命を犠牲にしないという意味で、倫理的・人道的な肉である培養肉(人工肉)が、私たちの食卓にあがる日が近づいているのかもしれない。

 

私たちの食生活への影響

私たち人間は、元来雑食性の動物であり、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。自らの命・健康を維持するためには、他の生きものを自らの栄養源として摂取する必要がある。私たち人間の生命そのものが、他の生きものの命をなんらかの形で犠牲にすることの上に成り立っているのである。

 

それだけに、私たち人間にとっては、いかにして、他の生きものの命に配慮しつつ自らの生命・健康を維持していくかが、深慮しなければならない重い課題である。

 

こうしたなかで、すでに欧米を中心に進む培養肉(人工肉)の開発・普及が、こうした課題に応えるうえで大きな役割を担っている。 

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

       

 

 

ブッダの名言をもとに動物愛護について考える

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ブッダの名言

 「かれらも私と同様であり、私もかれらと同様である」と思って、わが身に引きくら

べ、生きものを殺してはならぬ、また、他人をして殺させてはならぬ。

        『ダンマパダ』より

「あたかも、母が己(おの)が独り子を身命を賭して護るように、そのように、一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし。」           

        『スッタニパータ』より

               

私たち人間は、元来雑食性の動物であり、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。自らの命・健康を維持するためには、他の生きものを自らの栄養源として摂取する必要がある。

 

私たち人間の生命そのものが、他の生きものの命をなんらかの形で犠牲にすることの上に成り立っているのである。

 

それゆえ、いかにして、他の生きものの命に配慮しつつ自らの生命・健康を維持していくかが、私たち人間にとっては、宿命的に背負わされている重い課題である。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じてさまざまな種類があるということである。

 

たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たないもの」・「身体の外にあるもの」であるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

また、魚介類や鳥類も、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

こうした人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

   

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

 最近では、米・野菜・魚介類・鶏肉中心の食生活が、肥満や成人病を予防するものとして、国内外の多くの人たちの関心を集めている。