昔ながらの味

和食の長所、和食に伝わる心、また命の重み・大切さなどについても書いてあります。

聖書に語らえている「原罪」とはなにか。

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「聖書」は、人類の始祖アダムとイブがエデンの園で「禁断の木の実」を食べたことによって罪を犯し、その罪のゆえにエデンの園を追われ、地上に追放されたと記している。そして、私たち人間は、皆、地上に追放されたアダムとイブの子孫であり、その罪を引き継いでいると記している。

 

私たち人間がみな罪の血を引き継いでいるという、この「聖書」の教えは、私たち人間になにを暗示しているのだろうか。このことについて、次のように理解してみることもよいのではないだろうか。 

 

私たち人間は、元来雑食性の動物であり、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。

 

自らの命・健康を維持するためには、他の生きものを自らの栄養源として摂取する必要がある。私たち人間の生命そのものが、他の生きものの命をなんらかの形で犠牲にすることの上に成り立っているのである。

 

他の生きものの命を奪わないでは生き続けられないという、この現実こそ、まさに人間が背負っている原罪なのではないだろうか。

 

人類の始祖アダムとイブが「禁断の木の実」を「食べること」によって罪を犯したのと同じように、私たち人間も、また、日常何気なく行っている「食べること」において罪を犯しているのではないだろうか。

 

それゆえ、私たち人間にとっては、いかにして、他の生きものの命に配慮しつつ自らの生命・健康を維持していくかが、深慮するべき重い課題である。

 

この問題の解決は、いつの日か、科学技術が高度に発展し、人工的に合成される動物性栄養素の開発・普及が実現する時まで待たなければならないのかも知れない。

 

ともあれ、現在を生きる私たちが、遠い将来の夢ではなく、現実の問題として自らの食のあり方を考えるとき、生きものの命への配慮とともに、自らの健康・栄養への配慮も必要である。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じてさまざまな種類があるということである。

 

たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たない」もの・「身体の外にある」ものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

また、魚介類や鳥類も、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

こうした人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

最近では、コメ・野菜・魚介類・鶏肉中心の食生活が、肥満や成人病を予防する健康長寿食として、国内外の多くの人たちの関心を集めている。